ウェアラブル・コンピューティング幻想

まとまりのない考えをまとまりのないままに書きます。そのうちきちんと考察するかも。


ウェアラブル・コンピューティング好きってのは学生の頃とかにサイバーパンクとか女神転生シリーズとかに脳をやられちゃった可哀想な子がほとんどだと思うのですが、実際問題、実生活においてコンピュータと『ザ・ネット』が普通に存在する世代にとって、その手の幻想というのはどういう形になるのだろうか。
フィクションの世界におけるコンピューティング描写のシャバさは相変わらずで、ブラッディ・マンディとかを見るとちょっとお腹が痛くなったりするわけですが電人HALぐらいやっていただくと逆に燃えると思います。
コンピュータ・フィクション(今適当に考えたジャンル)の傑作というのはいくつかあると思いますが、lainとか電脳コイルとかハロワがぐっと来るのに対し、攻殻機動隊のどうしようもなさ感というのは誰に訴えればいいのかいつも悩みます。あれか、冷戦時代に作られた基本設計の限界か何かか。
コンピューティングというのは人間の能力の拡張で、ウェアラブル・コンピューティングはその直接的なイメージであり超人化幻想だと思うのですが、そこに明らかにエンジニアとエンドユーザの意識格差が存在するような気がするわけです。
要は、攻殻機動隊におけるコンピューティングはアプリ使ってるだけじゃん的な居心地の悪さ。コンピュータの一番面白いところをスポイルしている。ふざけんな的な。


誰かこのあたりのしっかりとした考察とかしていないですかね。