雪の記憶

 ソフト路線を狙った。ロリコンと言われた。

 いつものようにチャイムが鳴り、いつものように授業が終わった。私はいつものようにランドセルを背負って、いつものように学校をあとにした。
 そしていつものように、義昭さんの家へと向かう。


   ***


 似たような建て売り住宅が並ぶ新興ベッドタウンの端に、義昭さんの家はあった。錆の浮いた門を空けると、ジャーマンシェパードのバドが尻尾を振って私を迎えた。しゃがみこんでバドの首を抱え、首輪の下を掻いてやる。縁側の窓が開いて、義昭さんが顔を見せた。バドはますます嬉しそうに私と義昭さんの間を行ったり来たり。義昭さんが困ったように微笑んだ。
「上がって」
 縁側から家に上がり、靴をもって玄関に置いてくる。二部屋しかない和室のひとつに通されて、いつものように仏壇の前に座って線香をあげ、いつものように手をあわせる。
 仏壇には、雪の写真と位牌があった。


 親友の雪が死んだのは、もう一年以上前のことだった。塾の帰りに、普段は塾が終わってすぐに車で迎えに行くおばさんが買い物をしていて遅れてしまった。普段の待ち合わせ場所に雪はいなかった。
 数時間後に雪は近くのマンションから飛び降りて死亡した。性器からは性交の跡。服装の乱れと死因ではない打撲傷。
 犯人がつかまるまで、学校の周辺は騒然となった。登下校は保護者同伴、防犯ベルと携帯電話の完全義務化。
 つかまった犯人は、近所の中学校の生徒たちだった。


「今日もお休みなんですか?」
「大きいプロジェクトが終わった後だからね」
 義昭さんの家は台所にもテレビがある。六人がけのテーブルは三人家族には大きすぎる気がするが、義昭さんが言うにはお客さんがきたときのことを考えるとちょうどいいのだそうだ。
 その大きなテーブルに座るのは、今や義昭さんと私だけ。義昭さんからコーヒーを受け取り、いつもの席に腰をおろす。居間の向こう、縁側の窓の外で、バドがぐるぐる回ってはこちらを見ている。私が義昭さんを見つめると、仕方ないな、といいながら窓を空けてバドを家の中へといれてくれた。私が頭をひと撫ですると、バドは椅子の下に寝そべって組んだ前足の上にあごを乗せた。
 そして、私はいつものように義昭さんと他愛のない話をはじめた。学校の話や天気の話。ゲームの話や漫画の話。TVをつけて一緒に見る。一緒にバラエティーを見て笑う。
 義昭さんはその全てに静かに付き合ってくれる。身振り手振りを加えて話しながら、私は苦しい思いをする。笑顔を作るのがつらくなる。


 雪がまだ生きていた頃、『義昭さんの家』は『雪の家』で、『義昭さん』は『雪のおじさん』でしかなかった。
 塾のない日に雪の家に遊びに行く。バドは人見知りの激しい子で、私を見るたびに小屋の中から怯えて吠えた。
 玄関でおばさんが出て、二階の雪に声をかける。私は雪の部屋に上がらせてもらう。一緒に遊んだり勉強したり。くすぐりっこをしたり喧嘩をしたり。
 私が遅くまで雪の家にいて、義昭さんが早く仕事が終わったときにだけ私たちは顔をあわせた。ただいま、という声と、
「お父さんだ」という雪の声。そのとき何をしていても、雪は義昭さんを迎えに行った。やっていたゲームを中断し、私にごめんね、というと勢いよく階段を降りていった。義昭さんが階段を上ってくる音がする。自分の家なのに、私のいる雪の部屋の扉をノックして、私が返事をしてから扉を空けた。
「いらっしゃい」
「おじゃましてます」
「ゆっくりしていって。あまり遅い時間になるようなら、一度家に電話をいれて」
 はい、と言って私は頭を下げる。雪がすねた声で義昭さんを追い出しにかかる。義昭さんが笑いながら階段を降りていく。雪がもう一度ごめんね、と今度は恥ずかしそうに言う。


   ***


「……え?」
 昔を思い出していて聞き逃してしまった。義昭さんはそれをとがめずに、
「うん、もうすぐ卒業するんだねって」
 私の進学のことを口にした。義昭さんがコーヒーポットを持ち上げて見せたのにうなずき、コーヒーのお代りをもらう。紙を敷いた小皿で出された苦いチョコレートを食べながら、甘いミルクコーヒーをゆっくりと飲む。
「もう一年以上になる」
 はい、と私はうなずいた。雪が死んでから一年以上。私が雪のいないこの家に通い始めてからも一年以上。


 雪のお葬式にはクラスの全員で参加した。普段着なれない黒い服を着た私は、途中で雪のおじさんと雪のおばさんが席を立ったのに気づいて後を追った。今思えば、義務感でお葬式に来ている人ではなく、個人的に知っている人と、雪の家族と、雪の話をしたかったのだと思う。
 廊下の角で二人がしゃべっているのが見えた。泣きつづけるおばさんと、押し殺した声で話すおじさんは喧嘩をしているようにも見えた。おじさんが少しきつい声を出したあと、おばさんは泣きながら廊下を去った。
「あの……」
 声をかけようとした私に、おじさんは一瞬険しい顔をした後、力を抜いた。
「……見ていたんだね」
 私はうなずいて何かを言おうとしたが、怒りをまとう『大人』が怖くて声が出なかった。そんな私を見て、おじさんは困ったように笑って見せた。
「ごめん、怖がらせてしまった」
 悪いのは私なのに。泣きそうな私にさらに困った顔をして、おじさんは事情を話してくれた。
 雪が死んで、おばさんが自分を責め続けていること。もしもあの日、もっと早く迎えに行っていたら。もしもああしていれば。もしもこうしていれば。
「わかっているんだ。あれは悪くない」
 おじさんはつらそうな声でそう言った。続けて、
「だが、その一言が言ってやれない。『おまえは悪くない、しょうがなかった』と言ってやれない。それは」
 それは、おじさんも心のどこかでそう思っているから。おばさんがもっと早く迎えに行っていたら。もしもああしていれば。もしもこうしていれば。理性ではおばさんを慰めなければいけないとわかっているが、感情がおばさんを責めている。
「だから、しばらく別に暮らすことにしたんだよ。妻はしばらく実家に帰る」
 この歳で一人暮らしだ、とおじさんはおどけて見せた。娘を失い、いままた奥さんを失いながら、よく知らない子供のためにおどけて見せる。すべては私を怖がらせないために。
 おじさんの努力の甲斐なく、私は結局泣いてしまった。


「来年はもう中学生だ」
 と義昭さんは穏やかに言った。はい、と私は返事をした。
 私はこの家に通いはじめた。雪のために線香をあげ、おじさんとしゃべり、怖がるバドに声をかけ続けた。いつしか『雪のおじさん』は『義昭さん』になり、『雪の家』は『義昭さんの家』になっていた。バドも私になつくようになった。それだけの月日が過ぎていた。それなのに。
「でも、もう大丈夫だ」
 その月日を否定するようなことを、義昭、さんが。


「雪のために来てくれて本当にありがとう。でも、来年には中学に上がるんだろう?」
 義昭さん。
「一年以上。私もバドも、とても救われた。電話で妻ともしゃべってね。妻も本当に感謝している」
 義昭さん。
「だから、私たちは相談したんだ。そんな優しい君を、過去に縛ってはいけないって」
 義昭さん。
「だから」
 なぜそこでそんな風に微笑んで、
「雪と、私たちのことを忘れてくれ」


 私はテーブルを叩いて立ちあがった。驚いたバドが起き上がって怯えて逃げる。コーヒーが倒れて床にこぼれた。
「どうしたんだい、火傷は」
「なんで」
 コーヒーを拭こうと乗り出した義昭さんの服をつかむ。
「なんでそんなことを言うんですか」
 私の剣幕に義昭さんが黙る。
「邪魔でしたか、私? 毎日のように来てうっとうしかった?」
「そんなことは」
「じゃあなんで!」
 義昭さんの胸に顔を埋める。
「なんで忘れろなんていうんですかぁ……」


   ***


 雪のためにこの家に来ていた。『雪の家族』のためにこの家に来ていた。でも。それがいつしか。
「雪の代わりでよかったんです」
 私は言った。
「つまらない話をして。学校の話をして」
 義昭さんの笑顔を見ながら、でもそれが『雪の友達』に向けられた笑顔だと理解して。本当はつらくて。
 それでも、本当は『私』に向けられていなくても。雪が理由になっていくことに、罪の意識を覚えても。


 バドが心配そうに私を見る。足に鼻先をこすりつけ、甘えるような声を出す。
 私は義昭さんの服から手を話すと、顔を伏せてバドの首に腕をまわした。バドが私の涙を舐める。
 テーブルを回ってきた義昭さんが、私とバドの前に腰をおろした。所在なげに伸ばされた手が、私に触れようとするかのように動いたあと、結局バドの背にいった。ゆっくりとバドの背中を撫で続ける。しばらく二人とも黙りこんでいると、
「……あっ」
 沈黙に絶えかねたのか、バドが私の手を振りほどいてまた椅子の下にもぐってしまった。きゅーん、と情けない声をあげる。
 正面にはバドを撫でる格好で固まった義昭さんがいた。


「ごめん」
「ごめんなさい」
 二人同時に謝ってしまう。慌ててお互いを見て、まっすぐに二人の目が合った。義昭さんが白いものの混じり始めた頭を掻き、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「傷つけるような言い方をするつもりはなかった。君に感謝しているのは本当なんだ」
 義昭さんは話を続けた。雪が死んだ後、おばさんのこともあって本気で荒れた気持ちだったこと。犯人の中学生を殺すつもりで、EMLという機械の自作までしたこと(ソノレイドコイルの電磁力で弾丸を飛ばすもの、らしい)。そのために発動発電機を買ったこと。威力を試すために、最初にバドを撃つつもりだったこと。
「そんな私のところに、君が来てくれた」
 最初は、雪の友達に過ぎなかったこと。バドがなついてきたあたりから、私に雪の姿を重ねていたこと。
 私を見て、荒れた心が徐々に落ち着いていったこと。


「やっぱり、雪の代わりなんですね」
 微笑む私に、義昭さんは静かに首を横に振った。
「最初はそうだったかもしれない。でも、今は違うとわかっている」
 長い時間を一緒に過ごしたからこそわかる。
「君は、やっぱり君なんだ」


 私は正面から義昭さんの顔を見た。義昭さんも私の反応を待っている。
「私、邪魔じゃないんですね」
 義昭さんがうなずく。
「忘れなくてもいいんですね」
「忘れてくれ、という言葉を忘れて欲しい」
「来年も来てもいいんですね、雪と、……義昭さんに会いに」
 本人の前で義昭さんといったのは初めてだった。バドが椅子のしたで軽く吠える。くすりと笑って、
「もちろん、バドにも会うために」


 義昭さんは少し驚いた顔をした後、静かに全てを受け入れた。もう一度義昭さんの胸に顔を埋めて、私は少しだけ泣いた。
 椅子の下から出てきたバドが、私と義昭さんの周りをぐるぐると回る。私は笑ってバドを捕まえると、困ったように笑う義昭さんを見ながら最初のわがままを言ってみようと考えていた。


 私を苗字ではなく、下の名前で呼んでくださいと。


   ***


 いつものようにチャイムが鳴り、いつものように授業が終わった。私はいつものように鞄を持って、いつものように学校をあとにした。
 そしていつものように、義昭さんの家へと向かう。



 雪の記憶と、バドと、そして義昭さんの待つあの家へ。