黒い雪

 割と厳しい評価をいただいた一品。

 そして核ミサイルが降ってきた。


   ***


 瓦礫と化した街を離れて、山間部に入ってすぐのあたりで、男は地面に穴を掘っていた。
 舗装された道路脇に小型の四駆をとめて、土が露出したところにスコップをつきたてたのが一時間前。四駆で街を離れたのはそれからさらに二時間前だ。時間はあまり残されていなかった。
 だらだらと汗を流して穴を掘る男を見かねたのか、四駆からちょこちょこと歩いてきた少女が、男にピンク色の小さな魔法瓶を差し出した。
 口をきつく結んで、真剣な表情で差し出される魔法瓶。男はありがとうといって蓋を開けると、直接口をつけて中身を飲んだ。
 よく冷えた氷水。
 にこりともしない少女の髪の毛をくしゃくしゃにしながら、この魔法瓶も親がこの子のために用意したものだと考える。ぶすっとした顔で乱れた髪を直す少女を見ながら、締め付けられるような痛みを覚え、男は穴を掘る作業へと戻っていった。


 時間は本当に残されていなかった。


   ***


 戦争がはじまり、やがて泥沼と化し、それを打破するために大威力砲弾として核兵器が使用された。
 目標上空に誕生した巨大な火球は触れるものすべてを蒸発させると共に、熱線と衝撃波で周囲に破壊をまき散らし、さらにその高温から大気を急上昇すると共に気圧の急激な低下を招き、破壊による瓦礫と粉塵を巻き込み巨大な雲を形成した。
 大都市に生える巨大なキノコ雲。


 上空に巻き上げられた粉塵は二十四時間以内に再度地表へと降下する。放射線に炙られて、放射性物質と反応して、放射能を持った有害物質として地表を覆う。
 フォールアウト。それは、生物を死に至らしめる死の灰だった。


   ***


 遮蔽物の陰に飛び込めたのは完全な僥倖だった。這いつくばった男の頭上を爆心地からの圧倒的な爆風が吹きすさび、絶叫する男の周囲の、それほど運のよくなかった連中をことごとく死へと追いやった。
 熱線と爆風の後はすぐに気圧の低下した中心部へ向けての吹き戻しがはじまり、先ほどと遜色のない暴風が今度は逆方向に吹き始めた。最初の爆風で砕かれた瓦礫と粉塵が混ざる死の風は、周囲の景色を一変させた。
 全てが終わった後に、よろよろと立ち上がった男が見たのは、壊滅した自らの部隊と、男が守るべき街並みがことごとく打ち砕かれ、炎上しているという現実だった。
 感覚が半ば以上麻痺している。男は被っていた鉄帽を脱ぐと汗と粉塵にまみれた顔を拭った。遠く爆心地の方向に――上級司令部が置いてある、周辺で最大の都市の方向に――巨大なキノコ雲が生えていた。
 少しずつしっかりしてくる足を踏みしめ、男はここから離れる手段を探すべく、街の方へと歩いていった。
 生存者のうめき声が聞えてくる。助けようと思えば助けられる人々――そうではなかった。
 彼らを助けていては、フォールアウトを逃れられない。彼らは既に死刑を宣告された人々で、それはつまり、息をしていようとどうしようと、ただの死体と変わらなかった。


 つまるところ。
 生き残るために、男は兵士であることを放棄した。


   ***


 一匹の犬が、焼け爛れた後ろ足を引きずりながら必死に街路を歩いている。
 それを横目に、男は死と破壊に満ちた街の中を、一人確かな足取りで歩いていた。男を突き動かすのは生存への決意と意思だ。そこかしこを死体や死体になる人間が転がっている中を、躊躇なく踏破する。
 核兵器の発した電磁パルスは、電子部品の大部分を焦げ付かせているはずだった。それは自動車の類いも同様で、まともに動くものはほとんどないはずだ。動いたとしても、鍵がついているとは限らない。
 もっとも、前線に近いこの街では、住民の大部分は避難しているはずであり、半ば軍政下にあるため車両の大部分は緊急の徴集があった時の為に鍵を挿しっぱなしにしてあるはずだった。
 地下駐車場のあるマンションを見つけて、男はスロープを下りていった。非常灯を含めたすべての照明が死んでいる。男は懐中電灯をつけると逆手に持ってあたりを探った。
 地下駐車場も核攻撃の痛手を逃れていはいなかった。十数台の車両を止められるスペースは、奥の半分が瓦礫に埋まっている。
 男は駐車場に残っている車両を順に覗いて回った。懐中電灯で座席を照らし、鍵が挿さっているかを確認する。
 小型の四駆のところまで来た時、男は四駆の電装系が生きていることに気が付いた。運転席のデジタル時計とオーディオ・プレーヤがグリーンの光を発し、ラジオがザーザーと耳障りなノイズを立てていた。差し込んできた明かりに助手席で膝を抱えていた人影が面をあげる。暗い顔をした、まだ幼い印象の残る少女だった。


 男は運転席に体を滑り込ませると、身を乗り出して助手席の扉を開けた。
「降りろ」
 少女は無言で男を見ていた。
「降りろ。降りて、親と一緒にどこかに逃げろ」
 男の台詞に、少女は無言で駐車場を半ば埋めている瓦礫を指した。
 降りる気配のない少女に一くさり悪態をついたあと、男はエンジンに火を入れた。無理やり引きずり出すこともできたが、やっとのことで脱出の足を手に入れた男には、その時間すら惜しかった。
 もう一度身を乗り出して助手席の扉を閉める。
「名前は?」
 少女は答えなかった。ショックで口が聞けないのかもしれない。
 車を出そうとした男の手を、隣から伸びてきた腕が掴んで止めた。何事かと思いそちら見ると、少女が助手席の扉を開けていた。降りる気になったのか。
 扉を開けたそこには、先ほど見かけた足を引きずる犬がいた。
「勝手にしろ」
 犬を抱きあげた少女が扉を閉めるのを待って、男はアクセルを踏み込んだ。
 犬が力なく尾を振った。


   ***


 穴を掘り終えた男は少女と犬が待つ四駆へと戻っていった。少女は犬と共に後部座席へと移っていた。犬を抱えて座る少女を確認してから、男は運転席の背もたれを倒して伸びをした。ハンドルの上に足を投げ出し、目を閉じて目蓋の上から眼球を揉む。煙草を咥えて火をつけた。
「何で穴を掘るんですか」
 少女がこの数時間で初めて口をきいた。犬の頭を膝に乗せて、静かに背中を撫でている。
「フォールアウトが到達する」
 男は少女が理解するかどうかを気にせずに説明した。片腕で目を覆ったままで煙草を吸う。
核兵器ってわかるか? 広島、長崎。ビキニ環礁。いくつだ」
 少女は中学へも上がっていなかった。死の灰について説明する。
「だから穴を掘る必要がある。個人壕だな。もぐって、シートを被ってやり過ごす。フォールアウトが収まったら、そいつらを舞い上がらせないように気をつけてさらに逃げる」
「それなら、車の中にいれば良いのに」
「敵の存在を忘れている。汚染地域での活動は嫌でも目に付く。しかも車両内にいるとなれば、無人機のスマートミサイル攻撃で終わりだな」
 しゃべりながら、男は少女が家族の話をしないことに気付いていた。
 しばらくしてから、少女が言った。


「そして、私をどうするんですか」
 男は首を捻じ曲げて少女を見た。少女は犬を撫でつづけていた。


 男は四駆を降りると銃剣を引き抜いて後部座席の扉を開けた。
「降りろ」
 初めて会ったときと違い、今度は素直に従った。少女の隣に犬がついてくる。
 防護服とマスクは男一人の分しかなかった。少女は誰の入れ知恵かレインコートに手袋姿だ。フードを被れば顔以外に一切の露出部がなくなる。あとはマスクさえあれば最低限の対策にはなりそうだった。
 そう、マスクさえあれば。
 男は乱暴に少女を小突いて、四駆から離れて壕の近くへと導いた。膝の裏を蹴って地面に這わせ、少女の顎を持ち上げて喉に銃剣の刃を当てた。
「俺は死にたくない」
 絞り出すような声だった。
「慈悲だ。誓って苦しめたりはしない。放射線障害で苦しむよりは、速やかな死のほうがいい」
 少女は黙って聞いていた。犬が男に向かって唸る。少女はすべてを受け入れるように、目をつむって自ら白い喉を空に晒した。


 下らん茶番だ、と男は思った。そして、その茶番のおかげで、無人機の接近に気が付いた。


   ***


 ジェット機の吐き出す轟音に、男は少女と犬を抱えて壕へと走った。偽装したシートをめくると、人一人が入れるだけの小ぶりな竪穴が開いていた。喚く犬を叩き込み、少女と共に飛び込んだ。シートを被って息を殺す。胸の前に少女を抱え、足で犬の胴を挟んで押さえようとした。
「なに……」
 口を聞こうとする少女の顔を自らの胸に押し付け黙らせる。狭い個人壕の中で、互いの鼓動がわかるほど密着する。
 シートと穴の隙間から目だけを出して外を見た。敵が来るとしたらそちらからだろうと、壕は瓦礫の街を監視できるように作ってあった。街の方から飛来する黒い影。
 無人機は、街から伸びる道路沿いに急速に男たちの方へと向かってきていた。ただの偵察だ、と男は思い込もうとした。そして気付く。扉の開いた小型の四駆。


 無人機はオペレーターによる操作とAIによる自律行動の両方が出来るタイプだった。
 地形沿いに飛ぶ姿を見る限り、今は自律行動を取っているように思われた。ならば、余計な気を引かない限り無事にやり過ごすことも出来そうだった。あの四駆さえなければ、だ。
 無人機は四駆の上空を通過した後、反転して街の方へ戻り、もう一度同じコースを飛んで四駆へ向かった。
 放たれたスマート・ミサイルが四駆を吹き飛ばす。炎上する四駆を中心に、無人機が螺旋を描くように周辺の偵察を開始した。


 男はずるずると壕のなかで崩れ落ちた。終わりだった。もう何もかもが終わりだった。膝の上で身もだえする少女と足の悪い犬。戦友を見捨て、守るべき人々をも見捨てた果てに、彼女たちと共にここで死ぬのだ。
 一つ溜息をついて、男は少女の髪の毛をくしゃくしゃにした。犬の首を抱いてやり、耳の後ろを掻いてやる。犬は唸るのをやめて男の頬をぺろぺろと舐めた。静かに笑う男を、少女は黙って見つめていた。


 そして犬が飛び出した。


   ***


 止めようとすることすら出来なかった。足の悪い犬は壕を飛び出し、山の中を駆けていった。追いかけようとする少女を押さえて、男はシートの影から犬を探した。無人機のAIは飛び出す瞬間を見ていたわけではないようで、いきなり壕が吹き飛ばされたりはしなかった。左腕で少女を押さえ、右手で壕の縁を掴む。犬は遠く稜線の一つを超えると男たちの方を振り返り、一度だけ、力強く尾を振った。


 そしてスマート・ミサイルが叩き込まれた。轟く爆音の中に、犬の悲鳴は聞えなかった。


   ***


 無人機が去った後も、男は少女を離さなかった。その細い体を胸に抱きしめ、震える右手を握っていた。
 様々な思いが脳内を走り回る。痛みにも似た悔恨。尾を振る犬の姿。胸の中の少女。兵士であった自分。一つしかない防護マスク。


 男は少女を離してその目を見つめた。少女も見つめ返してくる。泥のついた頬を拭ってやって、余計に汚れを広げてしまった。
「時間がない」
と男は言った。少女には何の表情も浮かんでいなかった。
「マスクの付け方を教えてやる。呼吸の仕方、水の飲み方、食い物の食い方を教えてやる」
 少女は黙って男の服を掴んでいた。
「防護服は……サイズ的に無理か。レインコートを着てきたのはよかった。袖口と足首をビニールテープで縛着して灰が入らないようにする」
「死ぬんですか」
 男の言葉をさえぎって、少女が言った。男はうつむく少女を見た。服を掴む手が震えている。
「あなたも死ぬんですか。父さんや母さんみたいに。あの子のように」
 男は少女を優しく抱いてやった。頭を撫で、細い背中を支えてやる。
 何も言えなかった。言えるはずがなかった。すすり泣く少女を抱きながら、これでいいのだと男は思った。


 やがて少女は泣くのをやめた。うつむいたままで、一つだけお願いがありますと消え入るような声で言った。了承する男にぼそぼそと何かを呟くのを、よく聞こうとかがんで耳を近づける。
 抱いてください、と少女は言った。その意味は一つしかありえなかった。


 少女が、レインコートの前を開いて見せた。上着をずり上げ、下着を下げる。小ぶりな胸を包むブラジャーが奇妙な生々しさを出していた。少女を突き放そうとしたが、狭い壕の中では限界があった。
「……子供の言うことじゃない」
 男は否定しようとした。
「子供でも女です。生きた何かを残したい」
 少女は真っ直ぐに男を見詰めていた。真剣な、すぐに命を失うかもしれない少女の目。
「これ以上罪を犯せと? ふざけるな」
 違います、と少女は言った。
「罪を犯すのは私です」
 だから、と少女は男の手を取って自らの場所に導いた。
 倫理観と欲望。少女の望み。結局のところ、男に逃れる術はなかった。


 やはり俺の罪だ、と男は思った。


 ***


 レインコートをしっかり着せ、マスクを付けてフードを被らせた。手首と足首、コートの合わせの部分をビニールテープで塞いでいく。
 男の準備も進んでいた。防護服をきっちりと着込み、マスク代わりに濡らしたタオルで口を塞いだ。気休めだな、と思いつつも四駆から持ち出していた眼鏡をかける。少女の父親のものだった。


 四駆の残骸から回収できるだけの物を回収し、二人の壕へと運び込んだ。荷物を詰め込んだ背嚢が具合よくクッションの代わりになった。
 肩を並べるようにして壕の中に落ち着くと、二人はぽつり、ぽつりとお互いのことを話しはじめた。目の前には二人が出会った瓦礫の街。
 時折り、声を立てて笑いすらした。時間は穏やかに流れていった。


 最初に気が付いたのは少女だった。
「あ……」
 空から零れ落ちてくる。
「黒い、雪……」
 あれほど恐れていた死の灰が、音のない壕の中からは美しくすら見えた。
 瓦礫の街を覆っていく、多くの死をのせた黒い雪。
 声を立てることもなく、二人はその景色を眺めていた。


   ***


 やがて戦争も終わり、それがどのような種類であれ、人々が平和を取り戻す時が来る。
 それは核攻撃があった地も例外ではなく、やがて人の営みが戻ってくる。


 男と少女について一番ありそうなのは、二人とも死んでいる状況だ。
 フォールアウトが男を殺し、残った少女も移動手段もない中でただ一人、汚染地域の中で事切れる。
 運がよければ、少女は何とか生き残り、人々に男のことを話すかもしれない。
 それは一人の脱走兵の物語ではなく、少女を救うために死んだ一人の兵士の物語だ。


 だが、本当に運がよければ――というよりも奇蹟、願望に近いのだが――二人が共に助かる可能性もあるかもしれない。
 核攻撃があった地を、味方が放って置くはずがない。上級司令部が壊滅したとは言え、独自の判断で救出活動をしていた部隊があってもおかしくはない。


 だから。
 男が助かり、少女が助かり、あの犬が助かっていてもけしておかしくなんてない。
 爆撃の時に犬の悲鳴は聞えなかった。爆音にかき消されたのかもしれないし、ただ単に助かっていたのかもしれない。また怪我をして、どこかで震えているだけで。
 だから――戦争がおわって、皆が笑える日が来るかもしれない。


 少女がいて、あの犬がいて、男がいた。
 少女はその腕に赤ん坊を抱き、犬は後遺症が残る足を引きずりつつも、力強く尾を振っている。
 そんな彼らを、家族を見守り、男は穏やかな笑みを浮かべる。





 そういう日がくればいいと思う。

 UAVの描写とか、スマート・ミサイルという独自の表現で怒られた。
 あとえっちなのはよくないと思いますと言われた。