犬の戦記
双眼鏡を渡され、見るべきものを示された。
俺たちが今いる場所は、駅前の古いビルの二階にあるファストフード店の窓際席だ。俺は手のひらサイズの双眼鏡で斜向かいのビルを見た。一階のコーヒーショップに入っていく、ブランドもので身を固めた若い女の姿が見えた。見た目は、まぁ美人の範疇に入る。片手に持っているのは、服装と似合わない大手電機量販店の紙袋だ。
「あの女は」
と先生が言った。
「ブランドものに金を使いすぎた女子大生だ。金を借りるあてがなくなり、最後に闇金に手を出した。首が回らなくなったところを、私が闇金から買い取った」
先生はポケットから奇妙なものを二つ取り出した。
「無線式の来客用チャイムだ。どこでも買える」
そういうと、先生は片方のボタンを押した。先生の持っていたかばんから、ピンポーンと俺たちがいる店のチャイムと同じ音が鳴る。あくびをしていた店員が反射的にいらっしゃいませといい、客が入ってこないことに首をひねる。
「もう一つの方を押してみろ」
俺は言われた通りにもう一つのボタンを押した。
斜向かいのコーヒーショップが吹き飛んだ。
***
爆弾のつくり方を知っているか? 一番簡単なのはANFO爆弾で、軽油と硝酸アンモニウムの混合物だ。
じゃあ、そいつの適切な運用方法について知っているか?
都市ゲリラ戦において、仕掛け爆弾は戦略兵器だ。ただ目標をふっとばすだけではなく、人々の『平和という共同幻想』をもふっとばす。
権力とは影響力だ。そして、恐怖は影響力を支える柱の一つだ。
つまり、俺は権力に仕え、権力のために働く犬というわけだ。
うぉん。
***
もちろん、こういう世界に入ったのにはそれなりの理由がある。
自慢ではないが俺はかなりのアホの子であり、高校もそれ相応のアホの子向け学校に通っていた。
そういう学校ではなぜか暴力に魅力を見いだす連中が一定の数以上存在する。年がら年中誰かを殴ったり殴られたりして過ごすわけだ。半年もしないうちに、俺はそういう連中の一部に目をつけられて、いいように殴られたりするようになった。
たまんねぇなあ、と俺は思った。
というわけで、俺は手を出してきていた奴らの中で特に力を持っていた奴を何とかしようと考えた。そいつの住所を調べ、古い団地の一室に母親と幼い妹との三人暮らしであることをかぎつけた。そしてある月のない夜、俺はそいつの家の前まで行くと、ドアに空いている新聞投函用のスリットからたっぷりとガソリンを流し込み、ねじった新聞紙を挟んでライターで火をつけて立ち去った。後日、家族を助けるためにそいつが大火傷したと聞いて、俺はいい話だと思ったものだ。
次に、別の連中に絡まれるようになった。そいつらのリーダー格の親父さんは看板職人だったが、ある日、のぼっていた梯子を蹴り飛ばされて腰骨を折り、仕事を続けられなくなった。犯人はいまだに不明。リーダー格の奴は家計を助けるために学校をやめることになった。
レイプされた女もいた。別の学校に通うとある女子高生は、人気のない川っぺりを歩いている所を背後から音もなく近づいてきた犯人に押し倒されて、草むらの中で後ろからやられた。現場に残されていた原付免許から警察が目をつけたのは、偶然にも俺に絡んできていた奴の一人だった。免許の持ち主は退学になった。
さて、そんな生活をしていたある日、俺は学校帰りにワンボックスカーに引きずり込まれ、目隠しをされて連れ去られる羽目になった。
行きついた先はどこかの山の中。そして俺を囲んでいるたのは、いかにも本職っぽい怖い感じのお兄さん達。
そして、中でも特に雰囲気のあるお兄さんの隣にいる女の姿を見て、俺は自分が手を出す相手を間違えていたことを知った。
そこには、両腕を組んで憎しみの表情で俺を見下ろす、いつかの女子高生の姿があった。
脅しつけられた俺は、ことと次第をすべて話した。泣いて命乞いをし、びびって小便まで漏らして見せた。そこで、感心とも嫌悪ともつかない顔で話を聞いていた女子高生がお兄さんに何かをささやいた。
こうして、俺は組とお嬢さんの忠実な犬となったわけだ。餌は俺の生存権。仕事は、組の汚いこと全般と、お嬢さんの気まぐれな暴力を受けること。死体を野犬の出る山ん中に捨てたり、お嬢さんに一晩中殴られたりして過ごす生活。
たまんねぇなあ、と俺は思った。
***
コーヒーショップをふっとばした後、俺と先生は静かに現場を立ち去った。先生は灰色のフード付コートに両手をつっこみ、静かに地面を見ながら歩いていた。この人も謎だな、と思いながら俺はその後ろについていく。
先生はまだ若い女だった。カーゴパンツの裾をごつい安全靴の中にたくしこみ、上はTシャツに例のコート。目が隠れるほど長い前髪のせいで、その表情はほぼ読めない。
「お嬢さんはどんな感じだ」
俺のほうを見ないで先生が言った。
「あいかわらずですかね。男が怖い、男が憎い。で、そんな自分が許せなくて」
「恐怖の象徴であるお前を殴る、と」
先生は低い声で静かに笑った。
先生は組の汚い仕事の中でも特に技術面についての専門家だった。組の中では『あのオタク女』で通っている。
その仕事は多岐にわたった。組の資金が入っているソフト開発会社との調整や、盗聴及び盗聴対策。ラブホテルでの強請り用盗撮システムの構築や、その他最新テクノロジーを駆使したシノギの数々。
そして、簡易爆弾の製造と仕込み。
組で先生はある種のアンタッチャブルだった。
普段のシノギでも先生の存在は大きかったが、その本領は抗争の時に際立った。
あるとき、組が複数の外国系組織の的にかけられたことがあった。終わりなき出入りの中で、先生は何もしていないように見えた。組からつけられた数人の若いのと一緒にぶらぶらと街をうろつきまわり、与えられていた工房にこもっては遅くまで作業をしていた。あのオタク女、と誰かが言った。組の状況がわかっているのか?
もちろん、先生はわかっていた。
先生は慎重に事を進めた。複数のルートから別々に対立組織の幹部クラスを探し出し、行動を調べ上げた。護衛の人数を把握し、一人二人の鉄砲玉でどうこうできないことを確認した。
その上で、対立組織の幹部ほぼ全員を吹き飛ばした。
部下全員を爆弾にして。
想像もできなかった。鉄砲玉に死ねというのは簡単だ。だが、本当に死ぬような、確実に死ぬようなことに部下を駆り立てる何かが先生にはあるのだ。
それとも、爆弾にされた部下をだましたかだ。
今、俺が先生の下にいるのも先生がアンタッチャブルであるが故だった。誰も先生の下につこうとしないのだ。幸いにも、俺は先生がやるような汚い立ち回りが大好きだった。適材適所とはよく言ったものだ。
それに、と俺は思った。
俺だったらむざむざと爆弾にされたりはしない。
***
「あのオタク女な」
「はい」
「殺せ」
「は」
「聞こえなかったか?」
聞こえました。
コーヒーショップを吹っ飛ばす数日前、俺は街のそれなりに栄えた場所にある組の事務所の一室にいた。
ごつい事務机の向こうにいるのは、きちんとした仕立てのスーツを着た雰囲気のあるお兄さんだった。俺を山中に攫う仕切りをしていたあの人だ。背後には、街を見下ろす広い窓。
お兄さんは組の若手の出世頭だった。親父やお嬢さんの信頼もあつく、ゆくゆくは組の背骨になっていくと思われていた。
「犬よ、お前今のままでいいのか?」
犬というのは俺のあだ名だ。
「死体の歯ぁ折って、手首切り落としてミキサーにかけて。野犬に食わすためにそんな死体を山に運んで。あとはなんだ? あのオタク女の使いっぱと、お嬢さんの八つ当たり相手か」
「そんなもんですね」
あいかわらず口の利き方を知らねぇなぁ、と言ってお兄さんは笑った。
お兄さんは机を回ってくると、立っていた俺の肩をたたいて来客用のソファに座らせた。対面のソファに自分も座る。
お兄さんがタバコを取り出したところで、俺はオイルライターをつけて差し出した。お兄さんがゆっくりとタバコをふかす。
「俺はお前を買っている」
煙を吐き出しながらお兄さんは言った。
「お前は裏で立ち回るのが巧いし、こうと決めたらさっと動く度胸もある」
「ありがたいですが」
俺は警戒してあいまいに答えたが、お兄さんはそれを無視して話を続けた。
「あの女は危険すぎる」
部屋にタバコの煙が満ちていく。
要はこういうことだった。組の中でも、先生の存在は浮いているのだ。組に対する貢献は疑いようがないが、そのやり方が信用できない。そのノウハウは欲しいが本人は排除したい。ノウハウを得るためには誰かを下につけるのが一番早いが、抗争の時の記憶があるため誰も下につきたがらない。組の兄貴分たちは弟分をそんな女の下に回したくないし、使い捨てにして惜しくないような奴はそもそも回すに値しない。
そこにきてこの俺だった。
お嬢さんの個人的わがままで組にいる俺は、実のところ正規の組員ではなかった。俺はお兄さんの預かりの身で、お兄さんのところに回ってくる汚い仕事をさらに回されているだけなのだ。
俺が先生のところにいるのもそうだった。先生が、組に手伝いをよこすように言ったが、誰も応じようとしない。結局、組の若手を仕切るお兄さんのところに話が来て、お兄さんは自分の下にいる中で一番あとくされのない俺を差し出した。
だが、すぐに根を上げるだろうと思われていた俺は、予想を裏切って先生の仕事をよく手伝った。先生も何を考えているのか俺に手の内を次々とさらしていった。
ならば、とお兄さんは考えたわけだ。
今こそあの女を切るチャンスではないのか。
「切り捨てられると心配しているんなら、それはない」
とお兄さんは請け負った。
「お前があの女の仕事を引き継げるのが前提の話だからな。俺が口をきいてやる。お嬢さんも説得する」
そして、お兄さんの組の中での発言力も増す。皆が何とかしたいと考えていた問題を片付け、さらに先生の仕事をすべて引き継げるからだ。
黙っている俺を見つめて、お兄さんは応接用のテーブルにマカロフを置いた。
「もう一度言うぞ」
と、お兄さんはにっこり笑った。
「俺はお前を買っている」
凄みのある笑みだった。
***
今、俺はお兄さんとの会話を思い出しながら先生の後ろを歩いていた。受け取ったマカロフはどこにあるかといえば、面倒くさいので大量の乾燥剤と一緒に密閉容器に入れて普段死体を捨てに行く山に埋めてきた。もちろん、スプリングなどがへたらないようにきちんと分解した上で。
正直に言おう、俺は先生が怖い。先生はすべてを説明しない。先生は理解を求めない。俺たちは結果だけを見て後付の理由で先生を語っているだけだ。何を考えているのかわからない。
理解できないのだ。
だから怖い。
お兄さんや組の連中が先生を排除しようとする理由も同じだ。理解できなくて、怖いから。
だから殺す。
間に立つ俺にしてみればいい迷惑だった。俺は常に平穏を求めていた。できれば惰眠をむさぼりたかった。なのに、周りが俺に絡んでくる。そいつらを何とかしようとしているうちにこのざまだ。
たまんねぇなあ、と俺は思った。
先生が歩みを止めたのは、俺も初めて見る先生の個人的隠れ家のひとつだった。
組の人間も知らないそこに俺が案内された理由はわからない。もちろん、ひとつぐらいなら想像はできた。少なくとも、先生が俺を信用しているからでは絶対にない。
安アパートの、ユニットバスと和室が一間あるだけの小さな部屋だった。土間のすぐ脇に水道と小さいコンロ。年代もののちゃぶ台と小さいテレビ。
そしてこれだけは新しい、やたらと周辺機器が増設されたPCと作業台。
「うどん食うか?」
先生がコートを玄関脇の壁のハンガーにかけながら言った。安全靴と靴下を脱ぎ素足になる。
つまりあがれと言うことだろうか。
俺はぼそぼそといただきますと言うと、部屋に入っていった。
先生の座っていろ、という言葉に従いちゃぶ台につく。
ちらりと見ると、肩まである髪を後ろでくくった先生が、軽くハミングをしながらうどんを茹でていた。
どういう状況だろう、これは。
テレビをつけて、Tシャツにカーゴパンツの若い女とちゃぶ台をはさんでうどんをすする。テレビからは古いドラマの再放送が流れている。
うどんの具はかまぼことホウレンソウ、小さく切った鶏肉だった。他に、てんかすと刻み葱、刻み海苔が小皿で出された。
俺たちは無言でうどんを片付けていた。先生の食い方は餓鬼っぽかった。熱くて持てないのか、どんぶりをちゃぶ台に置いたままかがみこむように食っている。顔を伏せ気味にして、髪をかきあげながらうどんをすする。
ふと先生が視線を上げた。不思議そうに微笑む先生を見て、俺は自分が先生ばかりを見てうどんがあまり減っていないことに気がついた。俺はうどんに集中した。
「ご馳走様でした」
「味については聞かない」
食い終わった俺に、先生が笑いながら言った。
「だが、腹はいっぱいになっただろ?」
はい、とだけ俺は答えた。先生がタバコを取り出したところで、俺はオイルライターをつけて差し出した。
先生がゆっくりとタバコをふかす。
「私はお前を買っている」
どこかで聞いたような台詞だった。
「トイメンで飯を食って、腹はいっぱい。そんな状況で、人は相手を殺す気にはなれない。そうじゃないか?」
俺は何も言わなかった。
『切り捨てられると心配しているんなら、それはない』
PCから流れてくるお兄さんの声。
『お前があの女の仕事を引き継げるのが前提の話だからな。俺が口をきいてやる。お嬢さんも説得する』
「驚かないな」
先生が手元のリモコンでPC上のプレーヤを止めた。
「可能性は、あると思っていました」
俺は慎重に言葉をつむいだ。
今現在、組で先生に一番近い人間は間違いなく俺だった。だからこそ言える。先生が、自分が置かれた状況を理解していないはずがないと。
考えてもみればいい。必要ならば部下を皆殺しにできるほど苛烈な人間が、ただ守る側に甘んじるわけがない。
「言ってみれば、お前は餌だったわけだ」
先生がタバコをふかしながら言う。
「お前という隙を作ることで、他の連中の動きが制限される」
わざと隙をつくることで、状況を簡潔で把握しやすいものにする。
だが、お兄さんも馬鹿ではない。事務所が盗聴されていたことはともかく、俺が先生に取り込まれる可能性を考えていないとは思えない。
俺がそのことを言うと、先生は「だろうな」と言って頷いた。
「気づいていたか? ここ何日も、私たちをつけまわしていた若いのがいたことを」
「ええ。だからコーヒーショップを吹き飛ばした。でしょう?」
先生が満足そうににやりと笑う。
あの時、俺たちは徒歩で移動してあのファストフード店に入っていった。俺たちをつけていた奴がいたとしても、店内には入ってこれない。露骨過ぎるからだ。そして、出入り口を見張るのに一番適していたのが、あのコーヒーショップだった。
仮にコーヒーショップに入らなかったとしても、俺と先生は混乱に乗じて店を出た。見張りをまけたのは間違いない。
先生が両足を投げ出して天井を仰いだ。後ろに手をつき、くわえタバコで俺に尋ねる。
「一応聞くがね、その状況でお前は私についてきた。疑われるとは思わなかったか?」
「ついていかないほうが疑われますよ。というか、どちらにしろ疑われます。そもそも信用なんかされているか」
見張りを吹き飛ばしたのが意図的なものならば先生は黒だ。だからそれを容認する俺も黒。先生が言っているのはこのことだ。
だが、見張りのことは俺も知らされていない。お兄さんが俺を疑っているからだ。『だから』俺は先生が黒であることに気づかない。なにか別のシノギだと思って、見張りが吹っ飛んだことに気づかない。『だから』俺は先生を疑わない。おとなしく先生についていく。
そして、先生は俺を吹き飛ばさない。俺を吹き飛ばせば、先生はお兄さんの考えを読んでいたことになる。自分から黒だと認めることになる。俺が生きている限り、先生は黒ではない。ぎりぎりで、黒に近い灰色になる。
「犬よ、お前今のままでいいのか?」
先生がお兄さんの台詞を真似た。俺は黙って続きを待った。
先生は自分が置かれた状況を的確に把握していた。要は、組への貢献度は高いが秘密主義と苛烈さで人がついてこないのだ。
ならば秘密主義を緩めて周りに歩み寄ればいいとも思うが、そんなことをすればなめられる。すでに恐怖と敵意が存在する以上、恐怖という鎧を脱ぎ捨てれば、後に残るのは味方のいない女が一人だ。しゃぶりつくされて潰される。
ならどうすればいいか。
「先に手を出させる。そしてそれを速やかに潰す。その後に、そいつの後釜に私の身内をつける」
先生がタバコを灰皿の上でひねり潰した。もちろん、今、組に先生の身内といえるような人間は存在しない。
先生は俺に今のお兄さんの地位を約束しているのだ。そして、先生の組への貢献と戦闘力、『相手が先に手を出した』という事実があればそれは可能だ。
「切り捨てられることを心配しているのならそれはない。これも奴と同じ台詞だな」
ちゃぶ台の下で、先生が足の指で俺のズボンをつまんでいた。
「私もお前を当てにしているからだ」
先生はじっと俺のことを見つめていた。目が隠れるほど長い前髪ごしの視線。
先生の出してきた話はお兄さんが持ってきた話の裏返しだった。相手を排除して、空席には俺をつける。
だが、二つの点が違っていた。お兄さんの話を飲むなら、俺は先生一人を殺ればすむ。そのあとは、お兄さんの下で楽しくやっていくことになる。
先生の話を飲めばどうなるか。端的に言ってしまえば、それはあまりにも危険すぎた。だが、少なくとも俺が先生の下につくことにはならない。俺がお兄さんの立場を手に入れた後は、先生は俺の力を必要とするようになる。対等の、パートナーだ。
「だから」
先生は静かに言った。
「私も切れる札は全部、切る」
先生の足の指がさらに動いた。
そして先生の手が、ゆっくりとTシャツの裾を持ち上げていった。
***
お嬢さんが俺を殴る。殴る。殴る。繰り返し、ひたむきに。手を振り上げられなくなるまで俺を殴る。
呼び出しを受けた俺は、事務所に連絡を入れて、できる限り早くお嬢さんのもとへと向かった。
日はすでに沈んでいた。大学生になったお嬢さんは、大学から数駅ほどのところにある高級マンションの高層階に一人静かに暮らしていた。マンションに入る前に、俺は敷地のすぐ脇に止めてある黒塗りのセダンに近づき、運転席の窓を叩いた。
窓が下がり、お嬢さんの護衛役の組員が顔を見せる。
「犬か」
「どもです。……お嬢さん、なんかありました?」
「知らんな。お前、またなんかしたんじゃないか」
心当たりが多すぎる。
「あー……。わかりました、行ってきます」
おう、と言って護衛役は窓を閉めた。護衛役は組で数少ない俺を馬鹿にしてかからない人間の一人だった。もとから根がいいことと、二人ともお嬢さんに振り回されているという同僚意識のせいだろう。
もちろん、俺がお嬢さんに何をしたか知らないというのも大きい。
お嬢さんが俺にやられたという事実を知る者は組の中にはほとんどいなかった。それを知っているのは、お嬢さん本人と、相談を受けたお兄さん、独自のルートでそれをかぎつけた先生、そして当人である俺だけだ。他の組員はおろか親父さんすらそのことを知らなかった。
もちろんそれは面子のためだった。ヤクザの嬢が、俺みたいな餓鬼にやられたなんてことは表ざたにできない。本来ならば警察が動くこともなく、裏で始末がつけられていたはずだったのだ。だが、現実問題として警察は動いた。それはなぜか。
もちろん、俺がタレこんだからだ。
お嬢さんにしてみればたまったものではなかったはずだ。組の信頼できる人間を使って落とし前をつけて終わりにするつもりが、匿名の通報者によって警察が動き出したのだ。組は警察にもそれなりのパイプを維持していたが、警察内部にそれを面白く思わない――または、警察側に有利なものにしたい――者がいるのも事実だった。結局、お兄さんは速やかに警察につなぎをつけ、原付免許の持ち主に事情を確認し、学校側に圧力をかける羽目になった。
つまり、謎の通報者のせいで組は余計な傷を負いかけたのだ。
そして、どこかで俺の存在に気がついた。そういうことだ。
お嬢さんが肩を上下させて荒れた息を整えていた。俺は張られたあごの具合を確かめ、手を腰の後ろで組んで休めの姿勢でお嬢さんに対した。
ぎ、とお嬢さんが歯を食いしばる音がした。腕が上がり、勢いよく俺の頬へと拳が来た。
お嬢さんは年齢の割には小柄なほうで、心配になるほど細い肢体と力のある目の持ち主だった。中肉中背を自負する俺と比べると、頭ひとつ分は差があった。
今、その印象的な目には強い憎しみが宿り、俺をにらみ続けている。俺はそんなお嬢さんを無視して天井を見上げ、ただひたすらに暴力が終わるのを待っていた。
と、耳をつかまれて無理やり頭を引きおろされた。お嬢さんの顔が目の前にある。
「私を見ろ」
そして拳。
「私を見ろ」
そして拳。
「私を見ろ!」
全体重をかけた一発。
お嬢さんがぜーぜーと息を荒げて俺を離した。俺はそっとつかまれていた耳を触った。血のぬめりを指に感じる。
俺は表情を殺してお嬢さんをまっすぐに見た。
「気に入らない」
お嬢さんが暗い声で俺に言った。
「私はお前が気に入らない。お前、私がお前にやられたから憎んでいる、そう思っているだろう」
そうじゃないのか? 俺の驚きは顔に出てしまったようだ。お嬢さんのきつい一発を食らう。
「ヤクザの嬢、舐めるな」
また耳をつかまれてしまう。目の前にお嬢さんの顔。印象に残る、強いまなざし。
「犬が。そう、犬だ。お前にやられたことなんて、犬にかまれたようなもので」
お嬢さんが俺を放した。
「覚悟なんか、とっくにできてたんだ。親の仕事が仕事だ。そういう目で見られるのにも、いつかそういう目にあうのも」
お嬢さんが顔を背ける。
「だから……あの時も、仕方ないと思った。そういうものだと。なのに」
振り返りざまに一撃。
「お前は、ただ利用するためだけに私を! 私じゃなくてもよかったのに! 私は何!? 私は何なの! 私を見ろ! 私を見なさい!!」
お嬢さんが絶叫する。流れる涙と、傷ついた拳。
殴られ続けながら、俺はやっと理解できた。俺はお嬢さんの体を汚しただけじゃない。お嬢さんの覚悟を、お嬢さんの魂を汚していたのだ。だからお嬢さんは俺を憎む。だからお嬢さんは俺を殴る。
俺は改めてお嬢さんを見た。
泣きながら俺を殴り続ける小柄な少女。そう、少女としか認識できない、年の割には小柄な体。
肉付きは薄く、つややかな黒髪は前髪を眉の辺りで、後ろを背中の辺りで切りそろえている。
そして俺をまっすぐににらみつける強い瞳。その瞳に浮かぶ絶望と恐怖と俺への憎悪。
この少女の魂を陵辱していたという事実に、俺は。
俺は強い喜びを覚えた。
俺の雰囲気が変わったことに気がついたのか、お嬢さんの表情に鋭いおびえが走った。俺は飛んできたお嬢さんの腕をつかんで、腰を抱いて引き寄せた。髪の毛をつかんで、お嬢さんの顔を上に向ける。
「お嬢さん」
ひどく穏やかな声で俺は言った。
「俺が犬なら、犬にかまれて、その犬を飼おうと思ったお嬢さんは?」
抗うお嬢さんの首筋に顔をうずめて歯を立てる。
「自分をかんだ犬を忘れられず、その犬に自分を認めさせたいと思っているお嬢さんは?」
暴れるのを組み伏せて床に這わせる。
他人にいいようにされっぱなしの俺だった。そこから抜け出したくて、やれることは全部やろうと覚悟を決めた。
そして、俺がはじめて『いいようにした』他人がお嬢さんなのだ。お嬢さんは俺の勲章であり、俺の罪の象徴だ。だから。
その晩、俺はふたたびお嬢さんをかんだ。犬のように。存分に。
***
お嬢さんをかんだ以上、俺に選択の余地はなくなった。俺はもう先生につくしかない。お嬢さんの頼みの綱であるお兄さんをつぶして、俺自身が権力を握る必要がある。
となれば行動あるのみだ。いまさら先生に接触している時間はない。単独で手早く動いて、お兄さんをさっさと片付ける。
俺はぐったりとしたお嬢さんを後ろ手に縛り上げると、お嬢さんの携帯電話と部屋に備え付けの電話の受話器を丁寧に踏み潰した。台所を物色してキッチンナイフを見つけると、お嬢さんのベッドのシーツとともに持ち出した。
窓の外が明るくなりつつある。日が完全に昇る前に、つぶせるところからつぶしておく。
護衛役のセダンは昨晩と同じところに止めてあった。運転席の側に回り、窓をたたく。
ゆっくりと窓が下がり護衛役が顔を見せた。
「犬か。どうした?」
「いえ」
俺はシーツでくるんだキッチンナイフを護衛役の首に突き立てた。護衛役はショックで口をアルファベットのオーの形にして固まっている。白いシーツが赤く染まる。俺にかかった返り血はなし。
俺はトランクを開けると運転席から引きずり出した護衛役を押し込んだ。押し込んだときは首を押さえて震えていたので、念入りに何箇所か刺し、ついでに財布と隠し持っていたトカレフもいただいておく。財布を物色していると、幼い子供の写真が入っていた。俺は写真を破って横たわる護衛役にぶちまけると、トランクのふたを閉めた。
さて。
俺はセダンに寄りかかると、意識してゆっくりと呼吸をした。
実のところ、俺が直接人を殺したのはこれが初めてのことだった。組に飼われて以来多くの死体を目にしてきたし、先生の指示のもとで人間を吹き飛ばしたこともある。
だがそれでも、と俺は思った。
直接この手で人間を死に至らしめたのは、これが初めてのことなのだ。
俺はずるずると座り込むとぎゅっと目をつぶり、両手で体を抱えるようにして襲い掛かってくるはずのショックに備えた。そのままの姿勢で数分過ごす。
ショックは襲ってこなかった。
そんなはずはないと思い、さらに数分間同じ姿勢で身構えていた。
なんにも。
俺は立ち上がるとほこりを払った。馬鹿なことをしていたという思いが強い。
結局のところ、俺はそういう人間だったらしい。
と、俺の携帯に着信があった。相手を確認して悪態をつく。
事務所のお兄さんからの連絡だった。
***
トカレフを事務所近くの駅のコインロッカーに預けた俺は、そのままコンビニで小さなカッターナイフを買ってきた。
俺は細いジーンズに磨き上げた革靴を履き、薄いブルーのワイシャツに安物のジャケットを引っ掛けていた。ジャケットの襟の裏にナイフを隠す。これは保険、あるいはひとつの賭けだった。
襟の裏に得物を隠すのは、知っている奴なら知っている基本中の基本だ。警備、保安、治安関係の仕事をしたことのある人間なら、不審者の身体検査をするときに必ずチェックする場所だ。だが、組の人間はどうだろうか? 普段犬とさげすまれている俺に、そこまで警戒するだろうか。
事務所に行った俺は、予想に反してそのままお兄さんの部屋へと通された。
緊張して部屋に入った俺が見たのは、いつかのようにごつい事務机の向こうに立つお兄さんの姿だった。
「犬か」
自分で呼び出しておきながら、初めて気がついたかのように俺を見る。いや、事実そのとおりだったようで、そのまま俺から視線をはずすと机上のPCのディスプレイへと視線を向けた。
扉のしまる音がした。ちらりと見ると、俺が入ってきた扉の前に、頭をスポーツ刈りにしたごついのが立っていた。右手にマカロフを握り、左手を右手首にそえて静かに腰の前に保持している。銃口が下を向いていることだけを意識に残す。
「この間の話なんだけどな」
「はい」
お兄さんがPCから目を上げずに言った。
「あれは無しになった。手打ちだ、俺とオタク女の間で」
「は」
「聞こえなかったのか?」
聞こえたから問題なのだ。
お兄さんがぼりぼりと頭をかきながら事務机を回ってきた。
そして予備動作も見せずに俺を殴った。
俺は床にたたきつけられてうめき声を上げた。髪をつかまれて引きずり起こされる。こめかみに銃の感触。あのマカロフを持った禿の仕業だ。
「ちょ、待ってください……待ってください! なにが、なんで」
もう一度お兄さんに殴られた。怒りに任せてという感じではない。だるそうな、そう、『結果はわかりきっているがやらなければならないつまらない仕事』をやるときのような、あのだるそうな表情だった。
「あのな」
お兄さんが俺に言った。
「売られたんだよ、お前は。あのオタク女に」
床に座らされ、無抵抗に両手を頭の後ろで組んだ俺に、お兄さんがPCのディスプレイをぐるりと回して見せた。ディスプレイ上を流れているのは隠し撮りしたと思わしきどこかの安アパートの映像だった。
そしてそこに映っているのは……
「野良犬は野良犬だな」
お兄さんがため息をついた。
「目の前の餌にすぐ尻尾を振る。認めるさ、あの女は頭がいい」
俺は下を向いて歯軋りをした。この手に気づかなかったからだ。
PC上を流れているのは、俺と先生がやっている映像だった。俺の好みに従い、先生を這わせて後ろからつながっている。
こういうことだ。先生は、俺を手土産にお兄さんに歩み寄ったのだ。
先生が組でどういう立場かを覚えているだろうか。敵意が存在し、歩み寄れば舐められてつぶされる。
だから俺という手駒を使って組の中に味方をつくる、先生はそう考えていた……
そう考えていると俺に思わせた。
逆だ。まるで逆だ。お兄さんの言ったとおりだ。先生は頭がいい。
先生はまず、俺という隙を作ることでお兄さんを動かした。そして、俺を取り込むことで簡単にそれを手玉にとって見せた。
その上で、お兄さんに手の内をすべてさらして歩み寄りの姿勢を見せたのだ。
お兄さんにしてみればたまったものではなかったはずだ。ここで意地になって先生をつぶしては意味がない。ノウハウは得られず、組に混乱が起こるだけだ。
全てをなかったことにもできない。証拠がばっちり存在する以上、下手な対応は首を絞めるだけだ。
そして、お兄さんは感心してもいる。お兄さんも馬鹿ではない。先生が歩み寄った意味を考える。そして先生の立場と考えを理解する。すぐに、自分が選ばれたのだと気づく。
つまり、先生のパートナーにだ。
じゃあ俺は?
俺はゆっくりと呼吸をしていた。しっかりと息を吸って、腹のそこから息を吐く。頭に押し付けられたマカロフを意識する。頭の後ろで組んだ手を緩めて指先に集中する。
「つらそうだな」
お兄さんがむしろ同情するような声で言った。
「まぁ仕方がないさ。せめて楽にいかせてやる。立たせろ」
最後のはマカロフを持った禿に向けた言葉だ。だが、俺は禿が動く前に自分から立ち上がった。
「犬?」
「自分で立てます」
俺はゆっくりと両手を下ろした。お兄さんはにやっと笑うと、いつかのように俺の肩を親しげに叩いた。俺に背を向けて扉を向く。
そして、禿も油断をして銃口を下げた。
俺は振り向きざまに手の中に隠し持っていたナイフを禿の右肩に突き立てた。悲鳴を上げかけるところで鼻っ面に額を叩き込み、取り落としたマカロフを奪う。
銃口を向けて引き金を引きまくる。
禿が崩れるのを無視して振り向いた。驚愕にゆがむお兄さんの顔。
「てめぇ、こんな街中で」
「だよな!」
言いかけるお兄さんをさえぎって残弾を全て叩き込む。崩れ落ちた頭を思い切り蹴り上げ、動かなくなった体を踏みにじる。
「馬鹿が、街中で撃てないなら意味ねぇって!」
俺は空になった銃を思い切り窓に投げつけた。ガラスの砕ける音と誰かの悲鳴。
「聞こえてるんだろ、先生?」
俺は盗聴しているはずの先生に大声で呼びかけた。
「さすがだ。さすがだよ先生。だけどな」
俺は言った。
「舐めるな、あんたの思い通りにはならねえ。待ってろよ、殺しに行くぞ」
扉の外が騒がしくなっている。あれだけ派手にやらかしたのだ。事務所のほかの人間も動き出したに決まっている。
俺は割れた窓から表を見た。下に、いつか俺を引きずり込んだワンボックスカーが止めてあるのに気がついた。激しく扉を叩く音。
俺は胸の前で十字を切ると、助走をつけて思い切りよく窓の外へと飛び出した。
***
すぐに得物を集めはじめた。コインロッカーのトカレフ、山に隠しておいたマカロフ。逃げながら知っている限りの先生のコネを回り、死体を作りながら爆弾の材料と金をかき集めた。
ホームレスに金を渡し、盗難車を組の別の事務所に運ばせた。双眼鏡で車が指定場所まで行ったのを確認してリモコンを押す。
盗難車がホームレスごと吹き飛んだ。
中堅幹部の自宅を襲い赤ん坊を盗んだ。そいつのもとへ指と携帯電話を送りつけて俺のスパイに仕立て上げ、裏切らないように毎朝最新の新聞と赤ん坊を一緒にとった写真をメールで送る。
赤ん坊が入るサイズの冷蔵庫を確保できたのが勝利の鍵だ。
爆弾を仕掛ける。銃撃する。警察にタレこむ。マスコミに写真を送る。別の組に情報を流す。
なんでもやる。
俺は、生き残るためにできることはすべてやるつもりだった。
***
まるで映画のようだな、と俺は思った。
月の明るい夜だった。眼下では、組の生き残りと準構成員数十人が、拳銃から金属バットまでさまざまな得物で武装してたむろしている。状況を理解していない烏合の衆。連中は気づいていないが、周囲には、俺の指示を待っている朝鮮系組織の兵隊たちが、手に手に自動小銃を持ってその瞬間を待ち構えていた。
そう、俺は先生の爆弾でやられた外国系組織と接触し、その協力を取り付けることに成功したのだ。
日本海側の倉庫街に組の連中を呼び出すのにはちょっとした工夫が必要だった。度重なる襲撃で構成員が激減し、警察にも上の組織にも目をつけられて屑共がひどく慎重になっていたからだ。
そこで、善意の協力者を装うことにした。
まず、組に仕込んだ俺のスパイにいつもどおり指示を出す。哀れなスパイは、かわいい我が子との対面を夢見て断腸の思いで指示に従う。もちろん、スパイは自分の子供がすでに死んでいる可能性に気がついている。しかし――ここが人間心理の面白いところだ――その可能性があまりにも残酷すぎるため、気づいていながら目をそらす。生きていると信じて組を裏切り続けてしまう。
そしてその裏切りを俺が組に密告する。
組は謎の密告者によって内部の裏切り者に気づく。密告どおりに裏切りの現場を押さえ、歯軋りして哀れなスパイを始末する。
さて、そのとき密告者がもうひとつの情報を流していたら、どうなるだろうか。
一つ目の情報は本物だった。じゃあ、二つ目の情報は?
つまり、組を襲撃し続けている敵を、この俺を殺すための情報があったなら。
俺は眼下の間抜けどもの中に先生の姿を確認した。俺にだけわかる、ひどく不安そうな顔。
そう、俺は先生と同じ手を使っているのだ。先生本人が気づいていないはずがない。
だが残念、先生に組を動かす実権はない。俺がお兄さんを殺したことで、先生の立場は弱いままだ。
俺は身を隠していた倉庫の屋根の上で立ちあがると、片手を挙げて周囲の部下たちに合図をした。
そして拡声器を取り出すと、間抜けどもに向かって声をかけた。
『ハロー?』
一斉に振り向く間抜けども。俺はにこやかに手を振ると、そのまま振っていた手を連中に向かって振り下ろした。
銃声と悲鳴の大合唱。
***
「気がつきましたか、先生?」
俺は倉庫の床に横たわる先生に声をかけた。両手両足を縛られて、散々なぶられて見るも無残な格好だ。
意識が朦朧としているらしい。うつろな目で俺を見ているので、用意していたバケツの中身をぶっ掛ける。
「犬……」
「うぉん」
俺を呼ぶ声にふざけて吠えて返してやる。
倉庫には、俺と先生以外は誰もいなかった。他の連中は先生を上から下まで弄んだあと、親切に最後は俺に譲ってくれたのだ。
「いやぁ、お久しぶりです。お元気そうで」
俺は静かに挨拶を述べた。先生がきつくにらみ返してくる。そう、そうでなければ面白くない。用意した遊びを楽しめない。
「このにおい、ガソリンか」
「ええ、もうわかるでしょう?」
俺は朗らかに笑うと、カラビナを溶接してある金属製の箱を取り出して、先生の足を縛る鎖に引っ掛けた。カラビナの開閉部に接着剤を流し込む。
「ちょっとしたおもちゃです。十分もしないで火が出ますから」
ぎし、と歯のなる音がした。先生が俺をにらんでいる。逃げようのない死を目前にして、それでも怒りを抱ける強さ。
考えてみれば、俺は先生のそんなところが。
好きだったのかもしれなかった。
俺は表情を消して立ち上がると、ポケットからコンビニで買ったカッターナイフを取り出して先生に放った。
「犬?」
先生が怪訝な声を上げる。
「最後の情けです。そいつで発火装置を分解して止めれば先生の勝ち。そうなったら、もう先生には手を出しません」
先生がカチカチと音を鳴らしてナイフの刃を出した。発火装置を止めるネジをはずし、箱をあけ、装置の仕組みを把握し止める。それも十分以内にだ。
俺は先生に背を向けると、倉庫のシャッター脇のドアへ向かって歩きはじめた。
「おい!」
背後から先生の声がする。
「後悔するなよ。私に情けをかけたことを」
俺は何も言わずに扉をくぐった。
ところで、倉庫のドアにはちょっとした仕掛けがあり、ある角度以上にあけると爆弾が炸裂するようになっていた。
もちろん、仕掛けたのはこの俺だった。倉庫の中にいるときに間抜けの襲撃を受けないようにと仕込んだもので、威力はせいぜい扉を開けた奴が吹き飛ぶぐらいだ。
さて、俺は先生を尊敬していた。ある種の敬意を抱いていた。俺を罠にはめたことはともかく、むしろ俺を罠にはめたからこそ、俺は先生を何か特別な存在のように感じていた。なかなか殺す決意ができなかった。
おそらく、先生は俺の作った発火装置など簡単に無効化して倉庫を抜け出し、どこかへ姿をくらますだろう。まさか発火装置をつぶして気が緩み、ドアの罠に気づかないなんて事があるはずがない。
言ってみれば、先生は俺にとって一人の英雄だったのだ。最後にもう一度だけその活躍が見たくて、つい舞台を用意してしまったわけだった。
俺は妙な寂しさを覚えて、海に向かって歩いていった。シャツの襟元を緩めて、ゆっくりと背伸びをした。
流れる風に身を任せ、その心地よさに一息ついた。
先生がいたはずの倉庫のほうから、小さな爆発音がした。
がっかりだよ、先生。
***
その後のことで、あまり語るべきことはなかった。
組はほぼ壊滅した。外国系組織複数によってシマを食い荒らされ、上部組織にも見捨てられてわずかな生き残りはちりぢりになって姿を消した。
お嬢さんはまだこの世界にいるらしい。俺を殺す決意をし、娑婆とのつながりを捨てて鉄火場に生きる道を選んだのだ。
一度だけ、身を寄せている組織の力を借り、遠くからその姿を見る機会を得た。
力強いまなざしは記憶のとおり。険しい表情はあの夜からのものだった。
そのマタニティドレス姿につい頬が緩んでしまった。お嬢さんが産むのは、人か、それとも犬だろうか。
戦争が速やかに終わったため、組の上部組織と外国系組織の間である種の協定が結ばれ、状況はゆっくりと落ち着いていった。
俺は朝鮮系組織の人間としてパートタイムで働くことになった。そして、信じられないことに、どうやら学校に戻ることができそうだった。
***
もちろん、一年以上通っていなかった学校に普通に戻れるわけではなかった。俺は夜学への移籍を前提にして、調整と面接のために何度も学校へ顔を出すことになった。
その日、俺の面談相手をしてくれたのは若い女の養護教諭で、ぱっとしない私服の上に白衣を引っ掛け、忙しいからと保健室に俺を呼びつけ難しい顔で書類を見ていた。
「う〜ん、ご両親がいないというのは大変だと思うけど」
ペンでこつこつと机を叩きながら養護教諭が言う。
「一年以上無断で学校を休んで連絡も取れずに、というのもちょっとね。ねえ」
「はい」
「まさか、悪いことはしていないよね?」
心配そうに俺に聞く。やぼったいが、よく見れば美人といってもいいほど整った顔が間近にあった。
「まさか」
俺は安心させるように笑顔でそれに返事をした。
「タバコを吸った事だってありませんよ。だって、まだ未成年ですよ?」
朗らかな俺の答えに、養護教諭もほっとしたように微笑みを返してくれた。