既製品がある生活って不思議じゃね?

 IT化が叫ばれて久しい昨今、日常生活においてコンピュータを触る機械は十年前よりも圧倒的に増えて、それが当たり前のようになっている。
 で、だ。自分達が触っている機械を、私達はどの程度理解しているのだろうか。


 私はコンピュータ業界に片足を突っ込んでいたこともあり、詳細な構造はともかく概要的な部分ではそれなりにパソコンだの携帯電話だのの仕組みをわかってはいると思う。パソコンに電源入れたらどういう順番で機器が認識されていく、とか。ブートストラップって奴ですな。だけど細部はもうぜんぜん駄目。電気工学とか電子工学とかはもうからっきし。
 先日、知人と話していて面白かったのが、知人がACアダプタのACが何のことか知らなかったこと。直流と交流とか学校で習ったじゃん、という話になって盛り上がった。
 そこで、ふと気がついた。


 日本は既製品のレベルが高すぎるのだ。家電、衣服、その他もろもろ。一昔前なら、ちょっと家電がおかしくなったらバラして中をいじり倒したりしたものだが、今はそんなことをしなくなった。
 既製品の使い勝手が悪くても、少し探せば類似品で自分の要求にこたえるものが手に入る。
 本当に単純な道具、たとえば工具類を自分の用途に合わせて改造したりもしなくなった。クリッパーにカラビナ溶接したりとか。自分で何かを作ったりしなくなった。だって大手量販店に行けばすぐ手に入るし。
 歴史的に見て、これはどういう状況なのだろうか。自分の使う道具を、自分で作らない。作らないにしても、理解していない。産業革命以前、道具を作るというのは特殊技能で、職人集団による囲い込みがあった。既製品などというものは基本的に存在しない。必要なものを注文し、そのつど作る。


 趣味で小説を書いている人間として、これは割と衝撃的だった。既製品があって当たり前、という感覚は、ごく最近になって生まれたものなのだ。そのことにまったく気がついていなかった。
 産業革命がおきていない時代の話、産業革命がおきていない世界の話を書く際に、このことは忘れないようにしようと思う。